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アンを探して~それぞれの赤毛のアン~


「赤毛のアン」を読んだのはいつ頃だったろう?
高校生の時に読んで、その後社会人になってから赤毛のアンシリーズを
今でいうスピンアウト編も含め全作読んだのだと思う。

私は「赤毛のアン」よりもその後のアンシリーズやスピンアウトの中に
忘れられないエピソードの断片が今でも残っている。
とにかく、女性なら(一部の男性も?)一度は通る「赤毛のアン」の洗礼があるのでは?

孤児院をたらい回しされていたアンは、ある日、マリラとマシューという独身の
すでに老人になっていた姉、弟のもとに養子となってやってくる。
男の子が来ると思っていたマリラとマシューは、女の子と知ってがっかりする。
しかし、確かマシューが、女の子でもいいじゃないかと、マリラを説得し
アンを正式に養子にもらったように記憶しているが・・
おしゃべりで、陽気で空想癖のある風変りなアンに、戸惑いながらも
このふたりの老人は、いつしかアンにあふれるような愛情を注いでいくことになる。

アンは学校で、将来夫となるギルバートという男の子と出会う。
最初はアンの赤毛を「ニンジン!」と言ってからかうギルバートだったが、
二人が成長し、アンは教師に、ギルバートはそれぞれ医者とそれぞれの道を進むが
結婚するまでの紆余曲折は、ドキドキワクワクして読んだものだ。

さて「アンを探して」の中では、杏里という穂のか演じる17歳の少女がひとり、
プリンスエドワード島に降り立つところからはじまる。
杏里は、いつか祖母と一緒に来るはずだったこの島で、
祖母の初恋の人を見つけるために来たのだった。
その祖母が突然亡くなり、遺品の中から、祖母が若いころに恋をした
カナダ人兵士へのラブレターを見つけた杏里は、祖母が渡せなかったラブレターを
代わりに渡すためだった。

その杏里を温かく迎えるB&Bの女主人マリをロザンナが演じているが、
とても自然体でいい味出している。
彼女も最愛の夫を突然亡くし、心を少し閉ざしている。
マリは、杏里にとってはまるでマリラのよう存在なのかもしれないが、
そう言えば、マリラもかつて若い頃に結ばれない恋をし、それ以来独身を通しているという
心の奥に消えない傷を抱えていたことを思いだす。

「灯台の近くに住んでいる」というたったそれだけのメモを頼りに、
島中の灯台をめぐる杏里。
もう見つからないかもしれないとあきらめかけ、
もうすぐ日本に帰るという時に、杏里はお別れパーティで、
祖母のラブレターをみんなの前で読む決心をする。
その時、ある奇跡が起こる。

杏里は、この旅の途中で、様々な人と出会い、初恋、失恋、マリの秘密と心の傷、
そして戦争の悲劇を学ぶ。
その悲しい戦争の中で芽生えた、祖母と捕虜だったカナダ人兵士の間に生まれた小さな恋。
その二人のささやかだけれども美しい思い出が、
今を生きる人たちに、あるいは辛い思い出の中に生きてきた人たちの心を
優しく温かい涙で包み込んでいく・・・・

杏里は、少し引っ込み思案で、どちらかというとおしゃべりの苦手な
つまり、赤毛のアンとはまったく対照的な女の子だ。
しかし、どこか孤独を抱えながらも、
健気で空想好きで一生懸命な様子は、同じ魂を持った女の子といえるかもしれない。
そんな杏里を演じる穂のかの、おっとりとした訥々とした英語がとても好感が持てる。
とてもシンプルな英語の会話ばかりなので、英語の勉強にもなるかも。

というわけでこの「アンを探して」という作品は、
プリンスエドワード島オールロケとはいうものの、
赤毛のアンの物語をなぞった観光ものではまったくない。

人生はすべてきらきら輝く事ばかりではなく、
戦争で愛する人を失う苦しみや悲しみ、挫折、孤独などを経験し、
それでも、互いに慈しみ愛する気持ちを失わず、小さな光(幸せと言ってもいいが)を
求めて一歩踏み出す勇気を持つこと。
アンの物語にはそんなテーマが流れているように思うが、
まさに、この映画の中には、そんなアンからのメッセージが込められているように思う。

とにかくラストは気持ちのいい涙が流れること請け合いだ。
これももう一つのアンの物語なのだと思う。

muro













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2010⁄02⁄25(Thu) 15:29   シネマホール | | | ↑Top
二度観ればさらに楽しいニューヨーク


脳内ニューヨーク・サブ1

今フォルツァ総曲輪で上映中の「脳内ニューヨーク」。
とにかく素晴らしい映画なので、最低二回観ていただきたいです。
僕にとっては今まで体験したことのない種類の映画でした。

そんな「脳内ニューヨーク」のテーマは
まさしく「人生」であると感じました。
脳内ニューヨークの原題は「Synecdoche New York」。
この「Synecdoche」という語に注目です。意味は提喩法。
提喩とは文章の表現方法である比喩法の一種で、
『全体と部分との関係に基づき、
「花」(全体)で「桜」(部分)を、
「小町」(部分)で「美人」(全体)を表現する類。』
だということです。

この原題により分かってくるのは、
監督のチャーリー・カウフマンはこの映画で
人間の「人生」そのものを描きたかったのではないかということです。
「人生」という言葉の中には、多くの意味が含まれています。
この言葉によって連想される言葉を挙げていくと…
誕生、成長、時間、家族、妻、夫、子供、仕事、友人、死…ときりがありません。
さらに具体的に挙げようとすれば、それらは無数の言葉となり派生していきます。
「人生」とは人間の一生全ての物事が含まれるとても大きなテーマです。
カウフマンは、2時間の尺の中ではとても語りきれそうもないそのテーマを
何とかして表現できないか?と考えたのだと思います。
そして彼はそれを「提喩法」で表現することを思いついたのです。
全体で部分を、部分で全体を表現する方法で。

これは様々な登場人物があらゆる他の人物や出来事と交差し合い、
それぞれが物語上でまた別の意味を持ちながらつなげられていく映画です。
オープニングを例に取ると、
『人生には始まりと終わりがある。』ということをラジオのMCが口にします。
「秋は終わりが始まる時なんです。
一年を一生とすると秋が始まる9月は
花の枯れる人生の晩年と重なる物悲しい季節です。
だからこそ美しい。」と。
そこから映画は始まりますが、このラジオの台詞は
直後のストーリーとは何ら関係を持ちません。
しかし後に重大なつながりを持ちます。
『終わりが始まる』というのはこの映画自体に言えることです。
このラジオが話している時に写されている画面は主人公ケイデンの寝室で、
電子時計が7時44分から45分に変わる瞬間の出来事です。
そして映画の終盤に脳内のニューヨークのある時刻に起こる出来事を見ていただけば、
この映画が、無数の伏線に張り巡らされ、
「人生」そのものの複雑さをいかに果敢に
表現しようと試みた映画かが理解できるはずです。

一度観た方なら分かりますが、
この映画は一度観ただけでは「???」が多すぎます。
しかし二度観れば、その「???」に答えが埋められていく感触を
見事に味わうことができるのです。
「あぁ、なるほどそうだったのか~」があるのです。
そういう映画の見方をできるものは非常に少ない。
そしておもしろい。
一度目の鑑賞は終わりの始まりにすぎず、また始まりの終わりにすぎません。
脳内ニューヨークの中にまた脳内ニューヨークが出来るように、
観るたびに新しい「ニューヨークの人間の人生」を、
そして観客自身の人生の投影を見られるわけなのです。
ですからこの映画は2度目の鑑賞をお薦めします。

脳内ニューヨーク・サブ2
[c]2008 KIMMEL DISTRIBUTION LLC All Rights Reserved

(ryu)





2010⁄02⁄18(Thu) 15:37   未分類 | | | ↑Top

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